一般社団法人 コ・イノベーション研究所

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by 橋本 大佑(はしもと だいすけ)

「多様性」に関するインタビュー記事を読んで

記事を期待して読んでみたら、結構肩透かし…。

 
 
記事のタイトルは「多様性を気にして生きている時点で多様性でないー「地球人」ウルフ・アロンという生き方」ということで、東京オリンピックで柔道で金メダルを獲得したウルフ・アロン選手のインタビュー記事がYahooニュースの特集記事で掲載されていました。
 
 
(外部リンク)
Yahoo!ニュース オリジナル 特集
多様性を気にしている時点で多様性じゃない──「地球人」ウルフ・アロンという生き方
https://news.yahoo.co.jp/articles/1d3832101627bf7fca82baf11d544eb8b4919899
 
 
このタイトルを見ると「ハーフ」というアイデンティティを持つウルフ・アロンさんが考える多様性に焦点が当たっているかと思いきや、多様性についての質問は序盤にサラッとあるだけで、記事の中心は柔道家としてのウルフ・アロンさんについてです。
  
 
こういったインタビュー記事や、仕事の結果(書いた文章、作った作品など)は、基本的に人格と切り離して考えないといけないですよね。これは結構難しいことです。どうしても自分の何かを切り取って(時間も含む)、それが変更ができない固定された結果として公に晒されたとき、その結果に対して批判的な批評があると自分を否定されたように感じることがあります。
 
 
これは、ものすごく思い入れのある自分の中の大切で大好きなものを思い切って話した時に否定されると、自分の考え方、人生、人格を否定されたような気持ちになるのに近いと思います。
こういった批評を人格否定として捉えてしまうと、自分のやっている範囲で限界が来ます。一生懸命作ったテキストや指導法などについて「ここってこうじゃない?」と言われたときに「わかってないな」と切り捨ててしまうと改善はできないです。
 
 
好きなものを批判的に言われる(相手が好きだとわかっていて敢えて批判的に伝えることもどうかと思ったりしますが)ときに、新しい視点だと思うと見えてくるものもありますよね。
長々と前置きをしましたが、言いたいことはこれからこの記事に否定的なことを言いますが、ウルフ・アロンさんの人格否定ではないと言うことです。
 
 
さて、この記事の中ではまずアロンさんの多様性へのコメントが紹介され、このコメントがバラエティで見せるおちゃらけた姿とギャップがあるとしています。以下、引用です。
 
  

「根底で“多様性”とかそういうところを気にしてるからこそ、そのような言葉が生まれたり、言わないと分からない人がいたりする。普段の生活から、気にせず生活していけば、差別とか区別とか多様性っていう言葉もなく、みんな平等にやっていけると思います」

 

どう思いますか?これは冷たい言葉です。
朝井リョウの『正欲』から引用します。
 

■多様性、という言葉が生んだものの一つに、「おめでたさ」がある (中略)これらは結局、マイノリティの中のマジョリティにしか当てはまらない言葉であり、話者が想像しうる”自分と違う”にしか向けられていない言葉です。

■多数派であるということに安住し、自分と言う個体について考える機会に恵まれないのは、一つの不幸でもあるかもしれない。
 
  
結局、このコメントって少数派とされる人たちの中である程度地位を確立することができた超人の話なんですよね。人に言えない話がいっぱいあって、多数派であることに安住している人たちに疎外感を感じている、マイノリティの中の大多数を占める地位を確立できなかった人たちには残酷な言葉だと思います。
 

以前、とんねるずが同性愛者のキャラクターを現代のテレビで演じ、フジテレビ社長が謝罪したときに、ミッツマングローブさんが「私は救われた」「自らの性的指向を笑いに変換して自らを弱者と名乗れば勝ち」というようなことを言ってさらに炎上したりしたわけですが、今回のアロンさんのコメントと非常に近いものを感じます。

 
ミッツマングローブさんのコメントについての記事です。

(外部リンク)
石橋貴明の「保毛尾田保毛男に救われた」ミッツ発言に賛否両論 – まいじつ
https://myjitsu.jp/archives/53363
 
 

みんながみんな、常にマイノリティの要素をポジティブにはできない

 

実際に今回の記事を読み進めていくと、ウルフ・アロンという名前で損したエピソードがいくつか紹介された後で、次のようなコメントがあります。
 
 
「『いじめられてる』と見られてたかもしれないですけど、僕はそれを『いじめ』とは解釈してなかった。常にポジティブでした。人よりも目立つし、一回で名前を覚えてもらえます。そういう意味では得だと思いながら生活してましたね」
 
 
これは、間違いなく超人なんですね。みんながみんな、常にマイノリティの要素をポジティブにはできないんです。それはマイノリティになる(パワーバランスの弱い属性を有する)と初めてわかるのかもしれません。でも、このポジティブ変換がどれだけ大変かわからないと「ウルフ・アロンさんの記事を読んで、マイノリティと言われている人たちもこうすればいいのに」って思っちゃうと思うんですね。「多様性とかいう面倒くさい言葉を使わなきゃいいのに」って。
 
 
そういう意味では、この記事は多様性疲れしている世間に届く記事なのかもしれませんね。
何で自分は多数派と言われる集団の中に含まれているとみんな思っちゃうんだろうな、と思います。それって没個性的だし、自由がないと感じます。
 
 
最近、「普通」って何だろうと考えることが結構あるのですが、一つの言語化として「ものまね」なのかなと感じています。普通とされる生き方、仕事の仕方、ライフスタイル、対外的に見せるキャラクター。そんな普通の見本市みたいなものがテレビや雑誌、さまざまなメディアで共有されていて、それをトレースすることで安心するような状況があるのかもしれません。
 

普通と考える多数派に属している安心感は、いとも簡単に喪失します

 
何でこんなことを考えるかと言うと仕事柄、障害受傷してそんなに時間が経っていない人と出会うからです。
障害受傷は「その人が考える普通からの脱落」という意味を持つと接していてよく感じます。特に日本的な仏教感において人間は関係性の中で自己存在を肯定する生き物だと思うので、ある程度無意識的に「普通」をトレースします。それが障害受傷によりできなくなるというのは大きな恐怖ですよね。先天性の方も構造的には同じ課題を抱えて居るように思います。
 
 
そういった中で向き合っていくには、その人は身体機能の制限によって何を喪失しているのかというところを考えていく必要があると僕は考えています。
だからあんまりこういう記事は出てほしくないなと思います。普通と考える多数派に属している安心感は、いとも簡単に喪失します。自分が、そして家族が、友人がそういった立場になった時、こういう体育会系のオラオラな多様性論みたいなものが普及した世の中は生きづらいのではないかと思います。
 
 

この記事を書いた人

橋本 大佑(はしもと だいすけ)
筑波大学で障害児教育を学んだ後、渡独して現地日系企業(THK株式会社)に勤めながら障害者スポーツを学ぶ。2009年に帰国し、障害者の社会参加を促進するためのスポーツを活用した事業を実施。2016年より現職。国内外で共生社会や障害者スポーツ指導者養成に関わる講習を行う。また共生社会の実現に向けて企業を対象としたセミナーやコンサルタントも行う。
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