パラスポーツ体験を通じた他者理解について
子どもたちに障害のある人たちへの理解を深めてもらおうと「ボッチャ」を体験するイベントが開かれたことがニュースになっています。
特定のイベントを揶揄するつもりは全くありませんが、もうそろそろ目的を達成するために有効な手段であるかどうかは公に議論されてもいいと思います。
そろそろ実施サイドの論理的根拠が知りたい
特定の属性に関連付けられるスポーツを体験することは、その属性の理解には繋がらないということは自明です。パラスポーツを体験すること自体が障害者や障害に対する理解を深めることに直結するのであれば、婚活したい女性は相撲をして男性を理解することができるはずですし、僕も薙刀をして婚活ができるはずです。
テコンドーをすれば韓国人を理解することができ、少林寺拳法をすれば中国人を理解することができます。外国の方は相撲や柔道をすることで日本人を理解することができるということになります。
そんなことはないわけですよね。
例えば柔道を通して外国の方に日本を知ってもらうのであれば、ただ柔道をするだけではなく、その成り立ちや精神を伝えることが競技体験よりも優先されるはずです。
同様に障害を理解するためにパラスポーツを活用するのであれば、スポーツ体験だけでは十分ではありません。障害に対する偏見が能力に関するものであるのであれば、正に能力を競うスポーツ体験は能力への偏見を解消するにはよい素材ではないと思います。
では、パラスポーツ体験を通じて、障害に対する認識を変えることができないかと言われると、そんなことはなくて、このニュースのようにパラリンピアンや障害のある方とスポーツを通じて交流できれば、障害者への認識を変える機会になる可能性はあります(その際は誰がどのように交流するかが結構重要ですし、場合によっては事前研修も必要です)。
また車いす体験などで楽しい体験をすることができれば、車いすに対するネガティブな偏見を解消することができるはずです。ただし、その車いす体験が競技用車いす体験である場合は、競技用車いすに対するイメージのみが改善され、結果として日常用車いすへの偏見は強まってしまうリスクもあります(これがうちの研修で競技用車いすを使わない理由だったりします)。同様に障害者の中のエリートアスリートであるパラリンピアンとの接触は一般の特別ではない障害者への偏見を高めてしまうということも指摘されていますね。
僕は別に現在さまざまなところで実施されているパラスポーツ体験を否定するわけではありません。ただ、それが共生社会実現を目指すものであるならば、スポーツ体験がなぜそこに繋がっていくのかという道筋を明確に示してほしいだけです。
例えば、6年前に発表された内閣府の「ユニバーサルデザイン2020行動計画」によれば、共生社会実現に必要なものは、街のユニバーサルデザインと心のバリアフリーです。街のユニバーサルデザインは段差の解消や情報提供などですが、心のバリアフリーに必要なことは、、
①障害の社会モデルの理解
②偏見や差別の解消
③自分とは異なる他者に共感し、コミュニケーションする能力の獲得
以上です。パラスポーツ体験を含む授業が、上記のどういった部分に効果があるか、という論理的な説明を知りたいですね。僕自身は何年も考え続けてきましたが、上記の2つの論理づけしかできませんでしたから。
(外部リンク)
NHKニュースウェブ
小学生がボッチャを体験 ”障害ある人へ理解を” 仙台|NHK 宮城のニュース
https://www3.nhk.or.jp/tohoku-news/20230605/6000023658.html?fbclid=IwAR2kHpBYOfNa0VHJVdGLdlS_VjGkLEZhzIz1LcRDaqwx7p_W5p2E3O4xlC0