一般社団法人 コ・イノベーション研究所

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by 橋本 大佑(はしもと だいすけ)

ある住職さんの言葉に出会って(備忘録)

曹洞宗霊泉寺住職。恐山菩提殷代 南直哉さんの言葉と出会いました。
以下引用です。
  
 
『他者との関係性とか言葉とかいうのは、常に破綻に晒されている。状況によって、いくらでも変わってしまう。だから、言葉は恐らく伝わらない、と思いながらしゃべること。人とのかかわりというのは、常に努力しない限りは維持できないと思いながらかかわり続けることです。』
 
『本来、生きることの意味なんていうものはないのです。「生きることの意味」を考えると、意味は現実化して人を拘束します。僕からみれば、意味は一定の条件で取り合えず成り立っているものにすぎません。条件が変われば意味は消失してしまう。だからこそ、意味を求めたり、意味を頼りに生きていくと間違ってしまうと思うのです。』
  
『生きていることに意味はない。死はわからない。だが、わからないものが生の条件として厳然としてある以上、ひたすら意味を当のではなく、いずれ死ぬという前提で、生きるテクニックを駆使する。これは幻想ではなくて、その場その場で自分の行為としてやっていくしかない。最終的には死ななくてはならないということに焦点を合わせ、そこまでどうするか?という話にしたほうが、人は間違わないし、楽だと思うのです。なぜなら、生きることに意味を求めると、意味を実現しない限り、自己実現しない限りだめなんだという話になってしまうから。自己の根本には根拠がないのに、実現なんて意味がない。意味がないというよりできないのです。それを自己実現という強迫観念にとらわれると、思ったとおりにいかない人間はすべてだめなのかという話になる。』
 
「覚悟の決め方(扶桑社)」より引用。
  
表層的に理解はできましたが、本質は何度となく頭で反芻しないとわからなそうですが、きっと忘れることなくずっと頭で考えそうな言葉です。
 
南さんはとても好きな宗教家で思想家ですが、ここに書いてある考え方はとても仏教的ですが、この前提に心を持っていくのは結構難しいですよね。究極のネガティブ思考が究極のポジティブ思考みたいな感じです。こう考えられたらいいなとは思います。

この記事を書いた人

橋本 大佑(はしもと だいすけ)
筑波大学で障害児教育を学んだ後、渡独して現地日系企業(THK株式会社)に勤めながら障害者スポーツを学ぶ。2009年に帰国し、障害者の社会参加を促進するためのスポーツを活用した事業を実施。2016年より現職。国内外で共生社会や障害者スポーツ指導者養成に関わる講習を行う。また共生社会の実現に向けて企業を対象としたセミナーやコンサルタントも行う。
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