一般社団法人 コ・イノベーション研究所

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by 橋本 大佑(はしもと だいすけ)

こういう記事って実は差別的で、それが無意識だからこそ根深い問題だと思います

【こういう記事って実は差別的で、それが無意識だからこそ根深い問題だと思います】

※このブログは2022年12月16日のFacebookへの投稿に加筆修正したものです。

小島慶子「一つとして同じ脳はない。障害が個性として尊重される社会になる日は」〈AERA〉
https://news.yahoo.co.jp/articles/05eb61bfcbd2e5d7fca5f11d74fbfee6047d77fb

40代でADHDの診断を受け、公表している小島慶子がAERAに「障害」をテーマに寄稿していました。非常に嫌な印象を受けたのですが、その理由を一つずつ説明します。

1.障害について語る人を評価することが大事です

オリパラの招致が決まってから、多くの人がメディアを通じて障害を語ってきました。これは障害についての興味・関心を高めるためには効果的と思います。しかし、その中で「障害」について最低限の知識を身に付けた人がどの程度いるでしょうか。そろそろ「障害」を語る論客に対して評価が必要と自戒も込めて感じます。

「障害」で考えると判断が難しいことは、ジェンダーに置き換えるとその構造がわかりやすくなることがあります。例えば、国のレベルで行っている障害(障害者スポーツを含む)検討会でも障害者の参加比率が低いことがあります。ジェンダーに置き換えると、女性活躍推進を行う検討会の委員に女性がいなかったら問題ですよね。少なくとも半数以上は女性にした方がいいというのは共感してもらえると思います。そう考えると障害に関する委員会にはある程度の比率で障害者の参加が必要です。

もう一つ事例を出すと、僕は自身を男性と自認してこれまで生きてきていますが、「明日、女性の前で男性の話を1時間してください」と言われたらそれは無理です。自身で積極的に選択せずに自身に付随する属性について他者に語るためには、一定以上の経験と知識がないと、自分の経験と感覚からの個人的な話をすることしかできません。同様に、障害者についても障害であることだけを理由に自身の経験を一般化された通説のように話すことは本来あってはいけないことです。しかし、そうすると勉強した人しか意見が出せなくなってしまうので、そういう人を淘汰したいというわけではありません。世にある程度質の高い意見が浸透すれば、「障害は個性」や「障害は価値」というような議論に違和感を感じる人が増え、論客として淘汰されることになると思います。今はまだ、過渡期、障害に詳しい専門家に必ずしも発信力があるわけではなく、発信力のある人が「障害」について詳しいわけではありません。かくいう僕も、数年前の講義資料を見返すと、「そんなことを話していたんだ」と愕然とすることもありますので、偉そうに人のことは言えません。だからこそ、発信力のある人で僕の話を聞いてくれる人には、時間を掛けて意見交換やディスカッションをすることにしています。仕事が忙しいとあまり対応はできないのですが、講演等の原稿のチェックもよくしていますし、講演自体への評価も結構していたりします。

2.「障害は人の数だけある」という表現

『障害といっても多様で、特定の人の話を聞いただけで「障害という属性」全体にステレオタイプなイメージを形成することはできない。「障害は人の数だけある」ので、複数の人の話を聞きなさい』というのが第一段落の要旨です。「障害」もしくは「車いすユーザー」という表現でもいいですが、一つの言葉で括られる中に多様性があることを理解することはとても重要です。これもジェンダーに置き換えるとわかりやすくて、特定の異性と話すことで、「男性はこうだ」「女性はこうだ」と決めつけられないですよね。ウサイン・ボルトを見て、「ジャマイカ人はこうなんだ」という人はいないです。しかし、この当たり前の考え方が「障害」になると難しくなります。これは一番の原因は分離教育により、幼少期から障害のある児童とない児童が切り離されて教育されるため、障害のある人を含めた多様な人との接触回数が少ないからと言えます。ですので、この小島さんの「特定の人の話だけを聞いて障害を判断しないで」というのは、一見正しいメッセージに見えます。問題は後半部分です。

『発達障害でも、人それぞれに困りごとの内容や程度は異なります。同じ診断名がついていても、日常の生活に大きな困難が伴う人もいれば、適切な支援を受けて問題なく社会生活を送っている人もいます。同じ人でも、置かれた環境や人間関係によって、困りごとが増えたり、軽減したりします。(本文から引用)』という記載があります。ここには「障害=特定の能力が低い」「障害=困りごとがある」「障害=支援が必要」という本人も気づいていない偏見があります。でもよく考えてみてください。生きていて困りごとがない人なんていないんです。そして誰からも支援を受けずに生きている人なんていないわけです。食べているもの、着ている服、移動に使う車や公共交通機関、全て見えない誰かが背景にいます。困った時に話を聞いてくれる友人、家族の存在など、人間は、互いに支え合うことにより社会を形成する動物です。そしてどんな助けや支えが必要かは個人によって違います。障害者だけが、その困りごとはわかりやすいので、支援の対象となりますが、「困っている人を助けましょう」という言葉を使う際には、「自身は困りごとがある障害者とは異なる支援をする存在」であるという考えが無意識下にあります。障害当事者になってより確信を持ちましたが、そういう扱いをされるって結構辛いのです。

また、この論調からは障害は社会(環境)に存在するという社会モデルの考え方が全くありません。これについては障害の社会モデルという言葉を説明はできるけどそれを本当に理解していない人も多いので、社会モデルと言う言葉を使っているからと言ってその人の意識が社会モデル側なのかというのは判断が難しいところだったりします。まあ、でも今、障害を話す際の基礎の基礎である社会モデルの考え方が見えないのは、単純にもっと勉強してくださいと思います。こういった寄稿をする際に、編集などさまざまなチェックが入ると思うのですが、そのどの段階でもチェックがされないことが問題であり、小島さんだけを責めることではないとは思います。

3.「誰がまともでまともでないか」という表現

次の段落にはこう書かれています。

「発達障害について「なぜ、何を知りたいのか」をぜひ自問してみてください。診断名は、“誰がまともで誰がまともでないか”を見分けるためにあるのではありません。診断は、困っている人が、専門家による適切な助けを得るために必要なものです。」

「誰がまともで誰がまともではないか」という表現、非常に違和感があります。先ほど紹介したエイブリズム(非障害者優先主義)とは、「障害のない状態を最高の状態としてそこから外れる人を低く見る」という意味があります。障害は人格に寄与するものではありません。悪人が障害を受傷しても、恐らくその人の人格は悪人のままです。同様に障害者であることがその人を善人と判断する根拠にはなりません(障害受傷後に、自身の身体機能の制限や喪失と向き合うことで人間として成長する場合はあります)。それでも「車いすなのにパチンコ行くの?」「障害者なのに煙草を吸うの?」という声掛けをされた知人は山ほどいます。本来人格に関わらない障害が、あまりにもわかりやすい外見的特徴となるため(外見からわからない障害者はまた違った難しさと向き合うことになります)、その人の人格をステレオタイプに判断する根拠となってしまうことがあります。そういったことを考えると例示としても「まとも」という言葉を使う神経が僕には理解ができません。意地悪な言い方になりますが、「自分は発達障害者の中でも特別な存在」と思っているのかなと感じてしまいます。

4.「障害は個性」ってもうやめませんか?

「障害は個性」ではない、「障害は価値」ではない、という話をすると、よく議論になることがあります。その時によく聞く言葉が「私は自分の障害を価値だと考えている」という話です。こう言われたらみなさんどう答えますか?答えは一つではないです。相手との関係性や相手の状況に応じて答えは異なります。

一つ例を出します。例えば小さいころから視力が悪い人がいたとします。小学校からメガネを掛けています。でも、メガネは親が決めて買ってしまったので、自分のお気に入りのメガネではなく、自分ではメガネではない方がいいと感じています。その子が成長するにしたがって、自分でメガネを買うようになり、小さい頃よりは改善されたけど、それでも自分の求めるメガネには物足りなくて、デザインの学校に入ってメガネメーカーに勤め、今は視力の悪い人がより自分に合ったオシャレなメガネが選べるように商品開発を行うようになった、というような話があったときに、「その人にとって視力が悪いこと」は個性だったり、価値だったりしますか?個性だったり、価値があったりするのは、一つのことを突き詰めたその人の姿勢であり、努力であり、その人が現在社会に対してもたらしていること(メガネ開発によりメガネの選択肢を増やすこと)ではないでしょうか?僕が障害は個性、障害は価値という言葉を受け入れられないのは、その言葉を使うことで、その人個人の人格やその人が一生懸命に取り組んできた過程を無視しているように感じるためです。

ただここで皆さんにお伝えしたいのは、「個性」や「価値」として自己の内部で処理をしないと受け入れられないくらい「障害を受容する」「障害を含めたありのままの自分を受け入れる」ことは難しいことだということです。人によっては、自らを苦しめた自身の心身機能の制限や、環境にあるバリアによって受けた機会制約に対する復讐として「個性」や「価値」という言葉を使う場合もあります。なので、そういう言葉を使う人は「それだけ自身の障害が原因で苦しんだり、悩んだりした過去があるのだろう」とは推測します。もう少し言うと、ニーチェのいうルサンチマン(強者に対し仕返しを欲して鬱結(うっけつ)した、弱者の心)であったりもすると感じることもあります。

障害者権利条約第八条

この後、この段落では、障害=支援が必要というような認識の前提で文章が進んでいきますので、全編にわたって突っ込みどころが満載です。教え子がこういう情報発信をしていたら、3時間くらいは語り合うと思います。

障害者権利条約第八条は意識の向上について書かれたものですが、その第一項(b)に「あらゆる活動分野における障害者に関する定型化された観念、偏見及び有害な慣行(性及び年齢に基づくものを含む。)と闘うこと」ということが書かれています。僕が権利条約の中で一番好きな条文です。本文のエッセーよりも僕の説明が長くなってしまいましたが、こういった記事が表に出ることでエイブリズム(非障害者優先主義)の文脈の中で、障害のない人が望む理想的な障害者像が受け入れられていくとは思うので、見つけるたび、可能な限り今回のような説明はしたいと思います。

この記事を書いた人

橋本 大佑(はしもと だいすけ)
筑波大学で障害児教育を学んだ後、渡独して現地日系企業(THK株式会社)に勤めながら障害者スポーツを学ぶ。2009年に帰国し、障害者の社会参加を促進するためのスポーツを活用した事業を実施。2016年より現職。国内外で共生社会や障害者スポーツ指導者養成に関わる講習を行う。また共生社会の実現に向けて企業を対象としたセミナーやコンサルタントも行う。
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