朝井リョウ「正欲」 本来無一物から多様性を考える
朝井リョウ「正欲」 本来無一物から多様性を考える
※このブログは2022年6月10日のFacebookの投稿に加筆修正したものです。
今日紹介した「正欲」について、表紙が落下するカモであることを紹介しました。そしてきっとそれは『「正しさ」で思考停止した人が落ちていく』ことを表しているのではと僕の考えをコメントしました。
実は、電子書籍版は表紙が違います。電子書籍版では「本来無一物」で有名な『六祖壇経』 の禅語の詩が2つ書かれています。
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①時々に勤めて払拭せよ
身是菩提樹 心如明鏡台
時時勤払拭 莫使惹塵埃
身はこれ菩提樹
心は明鏡台の如し
時々に勤めて払拭せよ
塵埃をして惹かしむることなかれ
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②本来無一物
菩提本無樹 明鏡亦非台
本来無一物 何処惹塵埃
菩提本樹無し
明鏡も亦台に非ず
本来無一物
いずれの処にか塵埃を惹かん
7世紀の頃の中国での話です。禅宗の高僧であった弘忍が「悟りをより表した詩を書いたものを後継者にする」といったときに、最初に神秀という僧が読んだのが一番目の詩です。粗い解釈ではありますが、意味としては次のような感じです。
身体はお釈迦様がその下で悟りを開いたとされる菩提樹のようであり、心は澄み渡った鏡のようである。常に煩悩のちりや埃を払って、身体や心が汚れないように修行をしましょう。
これに対して慧能(えのう:即身仏が残っています)が書いたのが2つ目の詩です。
菩提に樹などないし、心に鏡もない。
心身も煩悩などの塵も同じ根源から生まれた同じものである。同じものなのにどうしてそれを払うことができるのか?
この詩をもって慧能は第六祖に認められます。
これは、著者の浅井リョウさんの強烈なメッセージと感じます。
「多様性」という言葉には「○○理解」という言葉がセットになることが多くあります。僕はこの「○○理解」という言葉が持つ上から目線と残酷性が苦手です。
障害やLGBTに理解と言う言葉を付けると「理解と言う言葉を使う人」にとって障害者などの特定の対象は「その人の考えるその時点で理解の及ばない存在」ですよね。つまり「その人が考える多数派」の中に入っていないということなわけです。僕自身も多数派に属している人間である自覚はないですから、理解という言葉は異分子として扱われている気持ちになり、非常に残酷だと感じます。そして「理解する」という態度には、「受け入れる」というニュアンスが含まれているわけで、そこには上から目線がありますよね。
何より、「理解する対象」には入らない、多数派の仲間だと思っている隣人のこと、実際にどれくらい知っていますか?「多数派」もしくは「普通」という言葉で括られる人たちも、それぞれ違う個人です。多様性、そして理解という言葉を使うときには、その隣人に対する「みんなが違う」という当たり前の考え方を拒否している感じがするのです。
「普通」も定義は難しいですが、この「正欲」で「普通」に該当する人とは『「明日生きることを当たり前に感じている」ことを共有できていると無意識下で信頼している人じゃないですか?』と著者は問いかけているように感じます。
神秀がいう菩提樹や鏡、埃や塵、その区別はどこで付けるのでしょうか。マニュアルがあるわけではなく、個人の判断に依るのだと思います。そこに慧能がいうような本来無一物でしょうという視点こそがこの「正欲」に記載されている内容なのかなと思います。