一般社団法人 コ・イノベーション研究所

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by 橋本 大佑(はしもと だいすけ)

ストローケンデル博士追悼セミナー報告 vol.2 北九州(2)

ふうせんバレーボールはなぜ”北九州市”で考案されたのか

ふうせんバレーボールが考案されたのは1989年でした。ちょうど今年は30年目にあたります。

前回のブログでも書きましたが、大まかなルールは下記のとおりです。
(1)バドミントンコートで風船をボールとして使う
(2)6対6で行うバレーボール形式の競技
(3)チームの全員がボールにタッチして相手コートに返球する
(4)そのため、通常のバレーボールとは違い、3回ではなく10回以内に相手コートに返球する

きっかけは1990年の福岡国体


はじめて行われたふうせんバレーボール大会

ふうせんバレーボールが考案されたきっかけは1990年に開催された福岡国体でした。
国体開催の数年前から、実施県ではスポーツの普及事業が行われますが、
その一環で、障害者スポーツの普及も行われます。

北九州市でも障害者スポーツの体験イベントが行われるようになりました。
ふうせんバレーボールを考案したのは当時北九州市で重度障害者の自立支援をしていた
重度障害者が中心となった団体「出夢出夢(でんでん)虫の会」でした。
(この会の活動は、以降の北九州市の自立生活センターにつながっていきます)

この団体にも北九州市で行われる障害者スポーツ普及イベントへの参加の招待があったのですが、
団体の構成員の障害が重く、参加できる競技がありませんでした。そこで、それでは自分たちで
作ろう、と考え、リハビリで使っていた風船を使おうというアイデアからふうせんバレーボールが
生まれました。

障害のない人がともに参加できるルールとしたのは、競技中に介助が必要な重度障害者が参加することも
ありますが、当時はまだヘルパーの制度がなかったため、ともにプレーしたい障害のない人を探すことが
移動介助者の確保にもつながるという効果もありました。

現在のふうせんバレーボールでは風船の中に鈴を2つ入れますが、これは1991年の大会に大分県から
視覚障害者が参加した時に追加されたルールです。

ふうせんバレーボールで実現しようとした2つの理想

さて、このふうせんバレーボールがなぜ、こういったルールで考案され、広く普及したのか。
僕は2009年にドイツに住んでいた時にふうせんバレーボールを考案した中心人物の荒川孝一さんから
SNSで連絡を受け、瞬間的に素晴らしいスポーツだと感じました。

恩師のストローケンデル博士に紹介したときにも、やはり瞬間的に高い評価をされました。

このふうせんバレーボールの魅力が何か、を知りたくて、2013年に北九州で3日間、当時の関係者に
ヒアリングを行ったことがあります。

そのとき、見えてきたことは2つです。

1つは重度障害者の責任感を高めること。

障害があることで周囲が支援を行う環境があると、自分で自分のことをしようという
気持ちが弱くなってしまう場合があります。以前、ある大学で聞いた話だと、同程度の
障害であっても、普通学校出身者と特別支援学校出身者では、特別支援学校出身者の
支援要請の量は普通学校出身者の3倍程度であるそうです。

荒川さんは、筋ジストロフォーという重度障害当事者でしたが、18歳までは普通学校に
通っており、成人以降、多くの障害者と関わるようになりました。

そこで、気づいたことの一つが重度障害者の中には自分のことを自分でやる気持ちが弱い人が
多いということでした。それで、ふうせんバレーボールではチームの全員がボールにタッチしなければ
相手コートに返球できない、というルールが考案されました。

コートにいるプレーヤーに果たすべき役割を与えることで、責任感を持ってプレーに参加する環境を
作れば、それが重度障害者の責任感の向上につながると考えたためです。

もう一つは、いろんな人が混ざることの楽しさを多くの人に伝えたいという想いです。
これは、当時ヒアリングした約20名の方が言葉で言ったわけではありません。
出夢出夢虫の会は重度障害者が中心となった団体でしたが、この団体が設立されるに
あたって、大きな役割を果たした支援グループがありました。
重度障害者の外出支援を行うボランティアグループです。

こういった人たちへのヒアリングからは、重度障害者の支援をしたかったという動機ではなく、
活動の中で知り合った重度障害者を含む人たちと交わる楽しさが伝わってきました。

「一緒にいて楽しいから一緒にいる」

ふうせんバレーボールはそんな場所を、もっと多くの人に知ってほしいという想いで作られたと
僕は感じました。そんな黎明期から関わっている人が今回訪問した岩井さんです。

この記事を書いた人

橋本 大佑(はしもと だいすけ)
筑波大学で障害児教育を学んだ後、渡独して現地日系企業(THK株式会社)に勤めながら障害者スポーツを学ぶ。2009年に帰国し、障害者の社会参加を促進するためのスポーツを活用した事業を実施。2016年より現職。国内外で共生社会や障害者スポーツ指導者養成に関わる講習を行う。また共生社会の実現に向けて企業を対象としたセミナーやコンサルタントも行う。
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