一般社団法人 コ・イノベーション研究所

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by 橋本 大佑(はしもと だいすけ)

ストローケンデル博士の遺した言葉(10)

ストローケンデル博士の遺した言葉


2010年ドイツの車いす講習会での様子 先生の左側の赤色のジャージが僕です

今日でこのシリーズも10回目となりました。

そして、今日18時30分から先生の追悼イベントを開催します。
準備に追われているときはそれほど感じてはいなかったのですが、
ここ数日は、作成したスライドの確認をしているときに

「ああ、本当に亡くなられたんだな」

と寂しさに気が付くと手が止まっている瞬間が増えてきました。

2009年に帰国してからも先生とは毎年のように顔を合わせていました。


2011年大分県で実施した講習会の様子

2011年ははじめて先生を日本に呼んで各所で通訳として帯同して講習会を行った年です。
震災後の原発事故で、来日を控える外国の著名人のニュースもチラホラ聞こえていたときでした。
先生にも「日本に来てもらえるか?」を確認しましたが、

「この大変な時期に自分が日本に行くことでできることがあれば、是非訪日したい」

と連絡をもらい、予定通りに各地で講習を行いました。


2012年ドイツハンブルク空港での様子
※先生と食べに行った回転ずしで食あたりになり、視察先の病院で嘔吐までした後に
空港の救護室で休んでいるところです。先生はいつもの元気な様子と変わらず、
少しお腹が痛くなっただけで、大した症状は出なかったそうです

先生の実技講習はだいたい1日コースで5時間~6時間程度のワークショップです。
はじめての通訳はとても不安が大きかったので、「何をどう話すか前もって教えてくれないか」と
お願いしたことがあります。その時に先生は

「教えてもいいけど、俺は生徒を見てやること決めるから、教えたとおりに話すことはない。だから教えても意味がない。」

と言われました。冷や汗をかきながら1日の通訳を終えたときに、先生は

「な、できただろ。できると思うから任せたんだ。この成功体験を通してまた俺への信頼が高まったんじゃないか?」

といつもの笑顔で言いました。そのときは、全てを出し切って考える余裕もなかったですが、
つたない僕の通訳に文句も言わず、常に横に寄り添っていてくれたことは、大きな安心感には
なっていたのかと思います。


2013年東京での車いすスポーツ講習の様子。

2013年は、僕がはじめての起業をした年ですが、その起業の直前にきてもらいました。
このときはじめて先生は、

「俺はお前のポジショニングをするために日本に来てるんだ」と

明言したと思います。

「自分は日本に住むわけにいかない。だから日本で俺のやってきたことを
伝える人材が必要で、それはお前だ。ただ、大きな実績もないままだとできないこともたくさん
あるだろう。だから俺を使ってお前が活動をするための下地を作れ」

そういう意味です。このころから、先生の講習会では通訳だけではなく、
講師アシスタントの役割も果たすようになりました。


2014年名古屋での講習会の様子

先生は2011年ごろに「車いすスポーツの指導教本」を執筆されましたが、
日本での講習会のときに、「この本は橋本が訳すから」ということをよく仰るようになりました。

日本で起業して活動を始めたことを大変喜んでくれていた時期です。
先生は、本当に倹約家で、このとき、頑張って大相撲の升席を取ったのですが、
「俺にこんなにお金を使うな」と少し強めに叱られた後で、
「でもそんなにお金を使ってもらったならちゃんと見よう」と
背筋を伸ばして相撲を見始めたのを覚えています。

日本に来るときも「必ずエコノミークラスで呼ぶように、無駄なお金を使わないように」という
指示がありました。そして、どうせ航空券代がたくさん掛かっているんだから、できる限り
講習会でスケジュールを埋めるように、という指示もいつもありました。


2018年3月盛岡でカラオケをしている様子

それでスケジュールを埋めて連絡をすると

「カラオケの予定が入ってないぞ」

と言われてカラオケの会をセッティングするというようなことをやっていました。
先生の講習会に参加された方はだいたい先生のことを好きになってくれるので、
終われば結構付き合ってくれる方がいて、カラオケで困ったことはあまりありません。

先生は本当はドイツでは、ドイツの古い民謡をよく口ずさんでいたようですが、
そんな歌は日本のカラオケには入っていませんので、日本ではいつも
ビートルズとプレスリーが十八番でした。

2015年は秋と年末に2度日本に来てもらいました。
2016年も秋に来日してもらいました。

この来日の際に、図面を一緒に監修した車いすの教習コースがつくば市にあります。
株式会社幸和義肢研究所のつくばイノベーションパークです。
今年、3月に来日してもらったときにやっとお連れできて、先生もとてもよろこんでいました。

ご興味のある方はリンク先に動画もありますので、是非ご覧ください。
https://www.kowagishi.com/2018/06/04/post-1468/


2017年ドイツケルンでの日本人向け車いす講習の様子

2017年はドイツで先生とお会いしました。
そして2018年は日本に先生をお呼びしました。

計7回日本にお呼びしましたが、先生はどこでも大変人気で
いろんな人から一緒に写真を撮りたいと言われてたくさんの写真を
撮っていましたが、先生が「この人と写真を撮れ」と言った人が
1人だけいます。

ふうせんバレーボールを考案した中心人物である故・荒川孝一さんです。
残念ながら荒川さんは数年前に亡くなりましたが、筋ジスで専門病棟で指一本しか
動かない中で、ふうせんバレーの海外への普及に取り組み、SNSで僕と2009年に
つながったことがきっかけでふうせんバレーボールは海外への普及が始まりました。

荒川さんについては、また別の機会に紹介したいと思いますが、
福岡県の専門病院を先生と一緒に訪問した時に、一緒に写真を撮るように
言われて撮ったのが、上の写真です。

病院を出られたとき、先生は「何という生きる力だ」と大変感動していました。


2018年3月に撮影。

今年3月に来日した時に、先生は当研究所の名誉顧問に就任しました。
プロのカメラマンを呼んで写真を撮影した時に「これで遺影は撮影しなくていいな」と
冗談のように言っていたのが本当になってしまいました。

全てのセミナーが終わり、成田空港まで先生をお送りする時に、突然先生から

「お前はもう生徒でない」

と言われました。

最近はセミナーのたびに、先生から「He is my best student.」というような
紹介をされており、今回の来日中もそんな表現は何度かありました。

しかし、それに違和感を感じたそうで、「どういう意味か」を訪ねると

「お前はもう生徒ではなくて、ともに活動する同士(同僚)だ」

と言われました。

この言葉が僕が先生と直接交わした最後の瞬間で最も印象に残っている言葉です。

これはその時だけの言葉ではなく、先生の葬儀に向けてドイツに渡航したときも
先生の同士の方々は僕をともに活動する仲間として扱ってくれました。

先生からいただいた宿題は本当に多いですが、皆様の支援もいただきながら
これから取り組んでいきたいと思います。そういった意味で今日のセミナーは
新しい取り組みへの第一歩と感じています。

さて、今日の追悼イベントに向けてシリーズでストローケンデル博士の
言葉を取り上げてきましたが、今回の10回目で一区切りです。

まだまだ紹介したい言葉はありますので、また機会を改めてご紹介できればと思います。
10回お付き合いいただき、ありがとうございました。

この記事を書いた人

橋本 大佑(はしもと だいすけ)
筑波大学で障害児教育を学んだ後、渡独して現地日系企業(THK株式会社)に勤めながら障害者スポーツを学ぶ。2009年に帰国し、障害者の社会参加を促進するためのスポーツを活用した事業を実施。2016年より現職。国内外で共生社会や障害者スポーツ指導者養成に関わる講習を行う。また共生社会の実現に向けて企業を対象としたセミナーやコンサルタントも行う。
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