一般社団法人 コ・イノベーション研究所

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by 橋本 大佑(はしもと だいすけ)

ストローケンデル博士の遺した言葉(9)

ストローケンデル博士の遺した言葉

今日は、先生の遺した言葉、第9回目です。

セミナーもとうとう明日に迫りました。
現在100名以上の申し込みをいただいています。
本当にありがとうございます。

さて、セミナーに向けての今日と明日は僕が先生から
直接聞いた言葉を紹介します。

先生は常に教育者であった

僕がドイツに渡航したのは2004年です。
障害児教育を学び、その経験の中で
スポーツという素材に興味を持ちました。

その当時いろいろと調べたところ、

「ドイツがすごい」

と判断し、大学卒業後、9カ月間お金を貯めて
ドイツに渡航したのが2004年1月です。

その後、何とかドイツ語を覚えて障害者スポーツの
地域クラブにメールを送り、100通くらい送ると
2、3通返事が来るので、返事をくれた団体に通って
ボランティアをしたり、一緒にスポーツをしたりしていました。

そういった中で「あそこにああいう人がいるよ」
「こんな活動をしている団体があるよ」と紹介してもらいながら
6月に先生と出会いました。

そのころの僕は、障害者スポーツのことなど何も知らない若者でしたが、
先生はとてもよくしてくれました。
自分が講師を務めている講習会に呼んでくれたり、
実際の指導の現場に連れて行ってくれたり、
ご自宅に泊めていただいて先生と一緒に何百キロも
車に乗って車いすスポーツ指導者の講習会に参加したりしました。

当時、ワーキングホリデービザでドイツに滞在していましたが、
先生のやっていることがとても面白かったので、
もっとドイツにいたいと思い、現地で仕事を探し、
日系企業の現地採用で雇用されることとなりました。

ここはドイツなので、日本にいる日本人みたいに
残業することはないよ、と言われましたが、
毎日終電で帰宅する日々が続き、障害者スポーツに
携われない時期もありました。

そのため、起業を目指して2009年に日本に帰国して
からの方が、自由に使える時間が増えた分、先生との連携が
強まりました。

最初は、僕がドイツに行っていましたが、
「そろそろお前が俺を日本に呼ぶ時期だな」と言われ、
はじめて先生を日本に招聘したのが2011年の夏でした。

写真ははじめて僕が日本で先生の通訳を務めた
大坂での講習会の様子です。

これ以降、計7回先生を日本に呼ぶことになりましたが、
毎回、嫌な顔一つせず、先生は日本に来てくれました。

2015年の暮れに先生を日本に呼んだ時に、

「なんで2004年にはじめて会ったときに
何も知らない外国籍の若者だった自分に
あんなにも親切にしてくれたのか?」

と聞いたことがあります。

そのときに先生が仰った言葉は、

「教育の効果は10年経たなければわからない。
 最初に道を閉ざしてしまっては、何の可能性も
 なくなってしまう。

 だからどんな人が来ても全力で誠心誠意
 自分ができることをするんだ。

 2004年から10年が経った今、お前は
 こうして自分を日本に呼んで各地で講習を行っている。
 
 な、俺は正しかっただろ?」

という言葉でした。そして、最後のセリフを言った後にニヤッと笑われたのです。

2004年にはじめて先生と会ったのは、ウィルチェアーラグビーの地域クラブでした。
先生は、初心者の女性プレーヤーにマンツーマンでずっと指導をしていました。
その全力で向き合い、指導する姿勢は未だに記憶に焼き付いていますが、
恐らく障害者スポーツに出会われた1960年代後半よりもっと前から、
晩年までこの先生の姿勢は全く変わらぬものであったのではないかと感じます。

この記事を書いた人

橋本 大佑(はしもと だいすけ)
筑波大学で障害児教育を学んだ後、渡独して現地日系企業(THK株式会社)に勤めながら障害者スポーツを学ぶ。2009年に帰国し、障害者の社会参加を促進するためのスポーツを活用した事業を実施。2016年より現職。国内外で共生社会や障害者スポーツ指導者養成に関わる講習を行う。また共生社会の実現に向けて企業を対象としたセミナーやコンサルタントも行う。
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