ストローケンデル先生の葬儀に行ってきます
当研究所名誉顧問のストローケンデル博士が逝去しました
HPでは既にご連絡をしましたが、当研究所の名誉顧問を務めていただいたホルスト・ストローケンデル博士(ケルン大学名誉教授)が8月19日に逝去しました(享年76)。私にとっては障害者スポーツに関わる哲学や理念を教えていただいた師匠でもありました。
ストローケンデル先生の国際的な貢献から、海外からの参列者に配慮して葬儀は2018年9月28日15時より、先生が暮らしていたケルンの近郊にあるLohmar市で開催されることとなりました。葬儀の後には近隣のホールで生前の先生を偲ぶ追悼セレモニーが18時から行われる予定です。私も現地に渡航して式に参列してくる予定です。
ドイツ語の文面ですが、先生にご関係のあった方でドイツ在住など式への参加をご希望の方は下記リンク先をご覧ください。
ホルスト・ストローケンデル博士葬儀のお知らせ
(写真)2018年3月5日に実施したセミナーで講演する故ストローケンデル博士
車いすバスケットボールの権威、地域での車いすスポーツ普及の権威
先生は、車いすバスケットボールのクラス分けの基礎を作られたことで世界的に有名ですが、私が出会ったころには車いすバスケからは離れており、地域での車いすユーザーへのスポーツ機会の提供に熱心に取り組まれていました。そのため、僕の中ではあまり車いすバスケ業界の有名人という印象はないですし、車いすバスケやウィルチェアーラグビーで取り組まれていたことも、「全ては障害者の社会参加度を向上するためのツールとして活用できるスポーツを、それが達成できるあるべき形にする」ための活動であり、根っこにある思いは共通していたと感じます。
以前、「なぜ車いすバスケットボールのクラス分けを変えたのか?」と問いかけたときに、「1970年代のクラス分けでは、脊髄損傷者が非常に不利な状況になっていた。車いすバスケは、脊髄損傷者が社会参加促進のために取り組むスポーツとしてとてもよいスポーツであるが、クラス分けの不利によって参加が制限されることで、その機能が果たせなくなってしまう。だから、クラス分けをより全ての選手が納得できる形に変更することで、車いすバスケが脊髄損傷者の社会参加促進のためのツールとして働き続けられるようにクラス分けを変えようとしたんだ」という話を聞いたことがあります。ですので、先生は多くの取り組みを行ってきましたが、その根っこにある思いは、「スポーツを通じた障害者の社会参加の促進」ということだったと感じています。
こういった理念から、特に近年では、先進国共通の課題として、中途障害者のリハビリ期間が短縮されたことによる退院後の引きこもり、孤立を防止するためのツールとしてスポーツをどう活用するか、というテーマに現場での実践を通して取り組んでいました。
初めての出会い
(写真)2017年9月 ケルンにて
先生と初めてお会いしたのは2004年6月ではなかったかと記憶しています。
2004年1月にドイツに渡航し、地域のスポーツクラブでボランティアをしている中で、「そういう目的で来ているならこんな人がいるよ」と紹介されて、また新しい団体にお邪魔して、というわらしべ長者みたいなことを3~4ヵ月繰り返していたころに、「障害者スポーツ専門で日本好きの先生がいるよ」と紹介され、ケルン市のウィルチェアーラグビーのクラブにお邪魔したときに、そこで指導をしていた先生に会いました。僕のことは事前に連絡をもらっていたようで、自己紹介をすると「おお、日本から来たのか?カラオケは好きか?」と聞かれたのが最初の会話です。
その1週間後、大学時代に障害児教育を学んだ中で、当時かなり悩んでいたことがあり、それをワードに書き記して先生の研究室にお邪魔しました。僕の悩んでいたことは、まだまだ経験もないし、実力もないのに生意気なことを言うなというくらいの勢いで日本にいたときには扱われることが多かったのですが、先生には「お前の悩んでいることはとても正しい大事なポイントだから、俺のところで学んでいけ」と言われ、その後、先生が実施する車いすの指導や、車いす指導者の講習会に招待していただけるようになりました。ちなみに、僕が初めて車いすに乗った時に一緒に練習をしたのが、先日、文京区イベントで日本に来てもらったエディーナ・ミュラーさんだったりします。
そこで学んだことが大変面白かったので、僕はドイツで就活をして、日系企業の現地採用として雇用されながら、有給を活用して障害者スポーツについて学んでいくことになりました。
日本に帰国してから
2009年に日本に帰国してから、僕は日本に先生を7回お呼びしました。
先生がよく仰っていたのは、「俺が日本に来るのはお前のポジションを作るためだ」ということでした。「自分が取り組んできた障害者の社会参加を促進するための地域のリハビリテーションスポーツのノウハウは、世界中に広めなければならないもので、もちろん日本でも普及をしなければならない。でも自分は日本に住んで日本のためだけに活動するわけにはいかない。俺がやりたいことを日本で広めるためにはお前が頑張るしかない。俺が日本に来れば、普段行けないところや、普段なかなか関わることができない人たちともつながることができるはずだ。だから、俺がこうやって日本に来るのは、お前のポジションを強くして、日本で俺がやりたいことを広めるために活動ができるお前がより動けるようにしているんだ」ということでした。
近年は、日本における後継者ということを講演などでも名言されており、先生のやろうとしていたことをしっかりと預かって、最終的には次の世代に渡していく、という重いバトンをもらった感覚はずっとあったのですが、先生が亡くなられてから、多くの方からご連絡、協力のお申し出をいただき、しっかりと取り組んでいかなければならないということを日々噛みしめています。
ドイツ滞在期間中は葬儀への参列だけではなく、現地の団体との交流なども行う予定で、その様子はHPやSNSで報告させていただく予定です。
先生が伝えようとしていたことは、機会を改めて少しずつご紹介していければと思います。