ふうせんバレーボール考案者荒川孝一さんとの思い出
10年前の写真が(Facebookの)タイムラインに上がってきました。
一緒に映っているのは荒川孝一さん。僕が日本に帰国した当時積極的に普及に取り組んでいたふうせんバレーボールを考案したグループの中心にいた方です。
2009年10月、ドイツから日本に帰る1か月ほど前にMixiを通じて荒川さんから連絡をもらいました。
「ふうせんバレーボールというスポーツを海外に広めたい。手伝ってほしい。」という内容でした。メールに書いてある概略を見た瞬間に心に来るものがあり、国内外への普及活動を始めることになりました。帰国後、すぐに福岡県大牟田市にある病院に会いにつれて行ってもらいましたが、荒川さんが亡くなる4年間の間に10回病院を訪れました。
僕が知り合ったときには、荒川さんは筋ジストロフィーの末期で、下と目と指先しか動かず、発声もできない状況で筋ジスの専門病棟に入院していました。よく夜中までSkypeチャットで議論しましたし、病院に行くと2時間だとA4のワード半分くらいの文字量分しか文字によるコミュニケーションはできませんでしたが、若かった僕の生意気な意見も含めてたくさんぶつけさせていただき、議論をしました。
「ふうせんバレーは僕のこどもだから、いい子であろうと悪い子であろうと死ぬまで見守るけど、橋本君はよくわかっているから好きにしていいよ。」というのが最後に聞いた言葉でした。
荒川さんは重度障害当事者として障害者の自立生活運動に取り組み、北九州市で初めての自立生活センターの立ち上げなどにも関わった方で、そういった運動の表現方法の一つとして風船バレーがあったと思います。
僕が荒川さんに教えてもらったことは、荒川さんは僕が出会った頃には最重度の障害者ではありましたが、一瞬たりとも不幸を感じさせない方でした。筋ジスの専門病棟に入院していましたが、「僕が荒川さんのところに行きたい」と言って北九州を訪れると同じく荒川さんに会いたい方が一緒に連れて行ってくれましたし、そういうお友達は荒川さんが好きだったラーメン店のスープを魔法瓶に入れて持ってきていたりもしました。それよりなによりいつも遊び心がある方でした。
障害があることを「不幸」と考えてしまう方もいます。本人はそう思っていなくても周りがそう思っている場合もあります。不幸かどうかは本人がどう感じるか次第とは思うのですが、荒川さんに会うことができたから、そしてふうせんバレーの出自を知るために北九州市の重度障害の方のお話しを聞いて回ったことがあったのですが、そういった方と対話した経験から、障害を「不幸」と捉える人の前に立っても、折れずに向かい合うことができていると思います。
こういう自分の中で大切な感覚を教えていただいた人生の先達の方は結構いるのですが、荒川さんはひときわ大きな存在です。
ありがとうございます。