ストローケンデル先生の遺した言葉(5)
ストローケンデル先生の遺された言葉を紹介します(5)

<障害児向けスポーツ指導モデル事業を開始した先生の様子(1972年)>
ストローケンデル先生の遺した言葉の紹介も5回目です。
先生が遺した41の格言集の中で引用は4件だけなのですが、
今日もその4件に含まれる先人の言葉から紹介したいと思います。
Der Mensch ist nur da ganz Mensch, wo er spielt.
Der Mensch ist nur da ganz Mensch, wo er spielt.
人は遊びの中にで完全にに人である。
フリードリッヒ・シラー(ドイツの詩人 1759-1805)
シラーはベートーベンの第九「喜びの歌」の歌詞となる詩を書いたことで有名ですが、
この言葉は1795年にシラーが書いた「人間の美的教育についての書簡」の中にある
「人は文字通り人であるときにだけ遊ぶのであり、人は遊びの中に完全に人である」
という文の一節です。
この書簡は教育学の古典的なテキストとしては大変有名なものであり、
この文言はシラーが研究をしていたカントの理念を継承した上で書かれたものです。
この遊びに関する考え方は後のホイジンガの「ホモ・ルーデンス」やカイヨワの「遊びと人間」にも
大きく影響を与えたものですが、この遊びに関する歴史的な考察は今回は割愛して、
ストローケンデル先生が重視していた「遊び」について少し解説をします。
スポーツ導入前の「遊び」の意義
ストローケンデル先生は、障害児・者に対する運動導入で「遊び」をとても重視していました。

<車いすで縄跳び・障害があることで損失している当たり前の遊びの機会を補填するという意味があります(1991年)>
遊びの重要性
障害者スポーツと一般のスポーツでは、この導入、これからスポーツをはじめる人に対するアプローチが
全く異なります。
通常、一般的なスポーツ導入の対象はこどもです。
では、どういったこどもがスポーツをはじめるか、というと
体を動かすのが好きだったり、得意だったりする子が多いのではないでしょうか?
そして体を動かすことが好きになったり、得意になったりするためには
日常的な遊びの機会が大きな役割を果たします。
また遊びの中で培われる社会性も、こどもの成長には大きな意味があります。
体を動かすことを知り、自分のことを知り、速さで勝てない友達に勝つために
いろんなことを考えたり、遊びを工夫してさまざまな創造性を発揮したり、
友達と協力したり、場合によっては友達とけんかすることでさえも、社会性を学ぶ大きな経験です。


<鬼ごっこや縄跳びの機会の確保は、障害によって失われた遊びの機会を保障することにつながります(2012年)>
遊びからスポーツへ
そういったさまざまな経験の先にスポーツがあります。
スポーツは「自由な遊びに制限を加える」ことでその娯楽性などを洗練していますが、
その根源的な楽しさ・面白さはルーツとなる遊びにありますが、
蹴ったり、投げたり、転がしたり、遊びにおいては自由にボールを使うことができますが、
サッカーでは足で蹴る、バレーボールでは床に落としてはいけない、など制限が掛かります。
そのため、スポーツの導入に先立って、根源的な楽しさを知るための遊びを体験している
ことはとても重要です。
しかし、障害があることで「遊ぶ機会」が損失している場合はどうでしょうか?
常に介助者がいることによってすぐに大人が介入するために「けんか」すらさせてもらえない場合もあります。
体を動かす楽しさ、自分で動いて他者と関わることを楽しいと感じる体験がない状態では
スポーツの導入は、とてもハードルが高くなります。
また、スポーツに先立ち、遊びの機会を確保することは、障害児にとっての成長機会の確保にもつながります。
これは中途障害者に対しても同じです。新しい身体状況の中で移動する楽しさ、仲間と関わる楽しさを
知るために「遊び」の要素は欠かせません。
僕も現在、車いすスポーツの講習をやるときは先生の教えに従い、日常生活用の車いすを使います。
そして、「スポーツ」を体験する前に「鬼ごっこ」などの遊びを多く体験してもらいます。
「車いすに乗って動くことが楽しい」体験の先にこそスポーツがあります。
そのため、ドイツの車いすスポーツの地域スポーツクラブでは、先生の教えに従い、
「遊び」が効果的に取り入れられています。